New England Patriots(ニューイングランド・ペイトリオッツ)
2024-11-24 / 708 view
The Pats 「パッツ」
ニューイングランド・ペイトリオッツはマサチューセッツ州フォックスボローに本拠地をおくプロアメリカンフットボールチーム。AFC(アメリカン・フットボール・カンファレンス)東地区所属。もともとボストン・ペイトリオッツと言う名称だったがマサチューセッツを含む北東部6州がニューイングランドと呼ばれており、アメリカ独立戦争の大舞台だったことからその名Patriots(愛国者)がつけられた。チームフラッグはアメリカが独立した際の13州当時の国旗(赤白ストライプに13個の星)が描かれている。
1959年11月設立。1960年、第二週のニューヨーク・タイタンズ戦で初勝利を挙げる。しかしこのシーズン、5勝9敗の最下位で終わる。1961年、2勝3敗になったところでヘッドコーチ(監督)が急遽解雇され、変わったヘッドコーチが就任直後残り試合を7勝1敗で終え、9勝4敗1分けでシーズンを終える。
1962年も9勝4敗1分けと好成績を残したがプレーオフ進出はならない。
1963年、本拠地がフェンウェイ・パーク(現ボストン・レッドソックス本拠地)に移る。7勝6敗1分けと不本意だったが初のプレーオフ進出を果たす。ここから1969年までのAFLに属してた間、プレーオフに進出したのは後にも先にもこの年の一度だけであった。ちなみにこの年に守備選手11人を全員黒人選手にそろえるブラック・パワー・ディフェンスと言うフォーメーションを行うが、開幕7連敗と散々であった。
1970年AFLとNFLが合併し、翌1971年ニューイングランド・ペイトリオッツと正式にチーム名を改称する。これと同時に本拠地もフォックスボロ・スタジアムに移した。1976年、13年ぶりのプレーオフを果たす。対戦相手はオークランド・レイダース。勝利目前だったが続けて2つの反則を取られ、逆転負けを喫してしまう。この試合はこの試合のレフェリーの名前をとってベン・ドレイス・ゲームと言われ、QBグローガンは「大事なものを奪われた。はめられたんだ」と語った。1985年、第20回スーパーボール出場を果たすも、スーパーボール新記録となる36点差で大敗する。この翌年プレーオフ進出を果たすも敗れ、それ以降、8年間プレーオフから遠ざかる。ちなみに1988年、オーナーの巨額の損失によってチームは売却される。1996年、チームは地区優勝を果たす。プレーオフでも勝ち、第31回スーパーボールに出場。が、鉄人と呼ばれたブレッド・ファーブ擁するグリーンベイ・バッカーズに逆転負けを喫す。1997年ピート・キャロルがHCに就任し、いきなりプレーオフ進出するも敗れ、1999年、解雇される。
名将、ビル・ベリチック
ビル・ベリチック(HC)は1952年テネシー州ナッシュビル生まれの62歳。大学卒業と同時にコーチの世界に入る。意外にもNFL経験は無い。
1987年、1991年とニューヨーク・ジャイアンツ時代にディフェンシブ・コーディネーターとしてスーパーボールを2度制覇。実績十分なコーチングキャリアを引っ提げて2000年、ペイトリオッツのHCに就任する。そして2002年、2004年、2005年、2015年と4回のスーパーボールを制し(4年間で3回優勝を果たしたヘッドコーチは史上ベリチック一人)、その後も圧倒的な強さを見せ続けて「ペイトリオッツ王朝」と呼ばれる一時代を築いていく。もう一人の男とともに…。
史上最高QB、トム・ブレイディ
トム・ブレイディは1977年カリフォルニア州サンマテオ出身、ミシガン大学を経て2000年ドラフト6巡目199位でペイトリオッツ入団。入団二年目の2001年、彼は「控えの控え」だったが、当時のエースQBドリュー・ブレッドソーが試合中に負傷退場した際、2001年シーズンの第二週ニューヨーク・ジェッツとのゲームからベリチックHCはブレイディを起用する。
この試合からペイトリオッツの黄金時代が始まっていく。後にこのゲームが「ペイトリオッツ王朝が始まったゲーム」と呼ばれるようになった。14年のキャリアで13回のプレーオフ出場、その30ゲームのうち、勝ちは7割を超える22回。また、ブラッド・ショー、ジョー・モンタナと並び4個のスーパーボウルリングと3回のスーパーボウルMVP、ポストシーズン10連勝など数々の輝かしい記録をベリチックとともに打ち立てていく。2010年以降も2016年まで連続して地区優勝を続けている。これからもまだ「王朝」は続いていくだろう。